目次
  1. 江戸時代の「ご苦労様」は目下から目上への言葉だった
  2. なぜ「ご苦労様」の使い方は逆転したのか
  3. 「目上にご苦労様は失礼」が定着したのは1980年代
  4. 「お疲れ様」も意外と新しい言葉だった
  5. 文化庁調査が示す世代間ギャップ
  6. 今も「ご苦労様」を目上に使う業界がある
  7. 宅配業者への「ご苦労様」は失礼?
  8. 結局、どう使い分ければいいのか
  9. 言葉のマナーは時代とともに変わる

「ご苦労様は目上の人に使ってはいけない」「お疲れ様なら誰にでも使える」——。ビジネスマナーの基本として、多くの人がこの使い分けを教わってきたはずです。

しかし、この「常識」は本当に正しいのでしょうか。実は言語学者の研究によると、江戸時代には「ご苦労様」は目下から目上に使う言葉だったという驚きの事実があります。

現代のマナーはいつ、なぜ生まれたのか。言葉の歴史をひもといてみましょう。

江戸時代の「ご苦労様」は目下から目上への言葉だった

日本語学者の飯間浩明氏は、著書『遊ぶ日本語 不思議な日本語』の中で、18世紀の歌舞伎『仮名手本忠臣蔵かなでほんちゅうしんぐら』に登場する、家来から主君への挨拶を紹介しています。

御苦労千万、今宵ももはや九つ、しばらく御まどろみあそばされよ

仮名手本忠臣蔵(現代語訳:明日は暗いうちからお城へ参上なさるのはご苦労この上ないことです)

目下である家来から、目上である主君に対して「ご苦労」と挨拶しているのです。これは現代のマナーとは正反対の使い方です。

社会言語学者の倉持益子氏も、論文「『御苦労』系労い言葉の変遷」でこの主張を支持しています。同論文では、18世紀の小咄集『安永期小咄本集』から、次のようなやりとりを紹介しています。

医者「これは御番、ご苦労。いつもよくお勤めなされます」
大家「これは忝いご挨拶」

武藤禎夫校註『安永期小咄本集』(1987年)

医者が敬意を払うべき大家に対して「ご苦労」と挨拶していますね。倉持氏によると、明治初期までこのような使われ方が多かったそうです。

では、殿様は何と言っていたのか?

江戸時代、主君が家来の苦労をねぎらうときに使っていたのは、「ご苦労」ではなく「大儀であった」という言葉でした。時代劇でもおなじみの表現ですね。

つまり江戸時代の使い分けは、現代とはまったく逆だったのです。

  • 目下から目上へ:「ご苦労様です」
  • 目上から目下へ:「大儀であった」

なぜ「ご苦労様」の使い方は逆転したのか

では、いつから「ご苦労様」は目上から目下への言葉に変わったのでしょうか。倉持氏は、その転機が明治時代の軍隊にあると指摘しています。

軍隊が「大儀」を捨て「ご苦労」を選んだ

明治時代に入り、日本は徴兵制を導入しました。新しい時代の軍隊は、古い武家社会の象徴を避ける傾向がありました。

幕末まで使われていた「大儀であった」という表現に古臭さを感じ、あえて別の表現を選んだのではないか——これが倉持氏の見解です。

宮沢賢治の作品『烏の北斗七星』(1924年)には、上官から部下への「ご苦労」の使用例が登場します。

ギイギイ、ご苦労だつた。ご苦労だつた。よくやつた。もうおまへは少佐になつてもいゝだらう。

宮沢賢治『烏の北斗七星』(1924年)

軍隊は戦争を経験しながら急速に影響力を拡大し、彼らの「ご苦労」のやりとりが徐々に市民にも広がっていったと推測されます。

時代小説が定着を後押しした?

興味深いのは、時代小説の影響です。大正・昭和の時代小説では、身分の高い武士が「御苦労であった」と家来に声をかける場面が頻繁に描かれました。

しかし、これは必ずしも江戸時代の史実に基づいたものではありません。当時の作家たちは現代の読者に受けるものを書いていたのであり、読者はそれらの小説から「ご苦労=主君から家来への言葉」というイメージを形成していった可能性があります。

「目上にご苦労様は失礼」が定着したのは1980年代

倉持氏の研究によれば、「ご苦労様」が目上から目下への言葉であると定着したのは1980年以降とのこと。その根拠として、辞書の記述の変化を挙げています。

ポイント

『学研国語大辞典』の「ご苦労」の説明は、1980年の初版と1989年の改訂版で大きく変わっています。初版では単に「他人の骨折りをねぎらう言葉」とあったのが、改訂版では「目上の者が目下の者に対していう」という説明が追加されました。

つまり、「目上にご苦労様は失礼」というマナーは、わずか40年ほど前に定着した比較的新しいルールなのです。

「お疲れ様」も意外と新しい言葉だった

では、「お疲れ様」はいつから使われているのでしょうか。

実は「お疲れ様」は明治時代頃から使われ始めた比較的新しい言葉です。しかも、もともとは芸能界の業界用語でした。

1980年代までは一般社会ではあまり使われておらず、「ギロッポン(六本木)」「シースー(寿司)」と同じような業界用語的な位置づけだったとする説もあります。

それが1980年代以降、「ご苦労様は目上に失礼」という認識が広まるのと同時に、その代替表現として「お疲れ様」が急速に普及していったと考えられます。

茶道との関連

「お疲れ様」の語源ははっきりしていませんが、茶道で弟子が師匠に対して使う「お疲れの出ませんように」という挨拶が関連している可能性も指摘されています。

文化庁調査が示す世代間ギャップ

2005年に文化庁が実施した「国語に関する世論調査」では、興味深い結果が出ています。

仕事を終えた上司に対してどのような言葉をかけるかという質問に対し、「お疲れ様です」を使う人が69.2%と圧倒的多数を占めました。一方、「ご苦労様です」を使う人は15.1%にとどまりました。

しかし、年代別に見ると面白い傾向が見えてきます。

  • 20~40代:目上への「ご苦労様」を容認するのは10%前後
  • 50代:14.3%
  • 60代以上:20.2%

年代が上がるにつれて、目上への「ご苦労様」を問題ないと考える人が増えているのです。

補足

60代以上というと、昭和20~30年代に社会人になった世代です。若いころに日常的に使っていた言葉なので、マナー違反という感覚が薄いのでしょう。「いつから上司にご苦労様って言っちゃいけなくなったんだ?」といぶかしむ人がいるのも当然です。

今も「ご苦労様」を目上に使う業界がある

実は、今でも「ご苦労様」を江戸時代のように使っている業界があります。落語界です。

落語家の林家はな平氏によると、落語の楽屋では「ご苦労様です」が基本の挨拶。先輩でも後輩でも、目上でも目下でも、すべて「ご苦労様です」で通すそうです。

これは江戸時代の芝居の世界から続く伝統で、目上目下に関係なく使われてきた本来の用法が残っているのです。

宅配業者への「ご苦労様」は失礼?

SNSで度々話題になるのが、宅配便の配達員への声かけです。

「ご苦労様です」と声をかけたら失礼にあたるのでは? と悩む人が増えています。文化庁の調査(2015年度)でも、宅配便の配達員にかける言葉として「ありがとう」が増加傾向にあり、特に若年層では「ありがとう」が9割を占めるという結果が出ています。

一方で、「ご苦労様は相手の苦労をねぎらう丁寧な表現なのだから、本来失礼ではないはず」という声もあります。

注意

「ご苦労様」が失礼かどうかは、受け取る側の認識次第です。マナー違反と感じる人がいる以上、無難に「ありがとうございます」を使うのが現代では安全でしょう。ただし、「ご苦労様」と言う人を責めるのも行き過ぎです。相手はねぎらいの気持ちで言っているのですから。

結局、どう使い分ければいいのか

国立国語研究所は、「目上・目下」による使い分けはビジネスルールであり、「ご苦労様」の全ての用法を説明したものではないと指摘しています。

本来、「ご苦労様」と「お疲れ様」の違いは上下関係ではなく、何に焦点を当てているかの違いだとする見解もあります。

  • ご苦労様:相手の仕事の内容(大変さ)に焦点を当ててねぎらう
  • お疲れ様:相手の心身の状態(疲れ)に焦点を当ててねぎらう

しかし現実問題として、「ご苦労様は目上に失礼」というルールが広く浸透している以上、ビジネスシーンでは「お疲れ様」を使うのが無難でしょう。

ポイント
  • ビジネスシーンでは「お疲れ様です」を使えば間違いない
  • 宅配業者や店員には「ありがとうございます」が無難
  • 「ご苦労様」を使う人を責める必要はない(本来は丁寧な表現)

言葉のマナーは時代とともに変わる

「ご苦労様は目上に失礼」という常識は、実は1980年代以降に定着した比較的新しいルールでした。江戸時代には逆に目下から目上への言葉として使われており、殿様が家来に言うのは「大儀であった」だったのです。

言葉のマナーは時代とともに変化します。現代の「正しいマナー」も、100年後にはまったく違うものになっているかもしれません。

大切なのは、マナーの「正しさ」にこだわりすぎることではなく、相手をねぎらおうという気持ちではないでしょうか。「ご苦労様」でも「お疲れ様」でも「ありがとう」でも、相手を思いやる心があれば、それが一番の「正解」なのかもしれません。

佐藤文哉
この記事の監修者 佐藤文哉 編集長 / ライター歴15年